「アウシュヴィッツまで行かなくても、アジアには台湾の人権博物館がある」ーー台湾の白色テロ時代を知るために、「国家人権博物館(景美)」へ。

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台湾カルチャーにせよオードリー・タンさんにせよ、台湾について書くためには、台湾の歴史を理解することが不可欠であることを常々痛感しております。

台湾は一辺倒にまとめることのできない、本当に複雑な歴史を歩んできているので、学び終わることは永遠になく、自分がずっと開かれた歴史の扉の辺りをうろちょろしているだけのようにも思えますが、それでも私が台湾の皆さまから教えていただいたこと、学んだことを、たとえ完璧でなくても日本に向けてお伝えしていかないことには、現状を突破できないようにも思います(なぜ現状を突破しなければならないと思うかは、また改めて書きたいと思います)。

その中のひとつが、「白色テロ」です。

台湾で2019年ミリオンヒットとなった映画『返校 Detention』は、台湾の白色テロ時代を舞台に描かれた映画。
今年の夏、日本でも公開されましたので、きっと「白色テロってなんだろう?」と思う方が増えると思います(増えてほしいと切に望みます)。

「白色テロ」とは?

私が2019年の終わりに雑誌『世界』に寄稿させていただいた中から「白色テロ」と、映画『返校 Detention』の紹介部分を一部抜粋してお届けしますね。
この寄稿では、このあと、この映画の監督・徐漢強さんをインタビューさせていただいております。もしよろしければバックナンバーでご覧いただければ嬉しいです。

日本による台湾の統治(1895-1945年)が終了し、国民党の統治下に置かれた台湾で戒厳令が敷かれた40年余(1949-1992年)にもわたり続いた「白色テロ(権力者による政治的敵対勢力への暴力)」。

民主運動家のほか、思想家や作家、芸術家といった知識人たちのほか、一般の民衆までもが突然嫌疑をかけられ連行され、尋問という名の拷問を受け、無実の罪を認めさせられたり、時には投獄・処刑されるという恐ろしいものだった。

後に政府から多くの冤罪があったことが認められてこそいるが、現在でも正確な犠牲者数はおろか、関連する資料も多くが残っていないとされており、事実は闇の中だ。

当時は原因不明の失踪が多発していたが、たとえ「最近、あの人の姿を見ないな」と思ったとしても、誰もその疑問について口に出すことができない。自分や自分の周いがいつ連行されてもおかしくないような状況で、夜も安心して眠れないほどだったという。

あまりの恐怖から、すでに30年以上が経過している現代でも、一般家庭や学校などでもそのことについて触れられることは少なく、台湾人でさえその全貌を知る人は少ない。

この映画『返校 Detention』からは、文献を読むだけでは感じにくい「白色テロ」のリアルが肌で感じられる。自由を求めて危険を顧みず闘う者と、心では自由を求めながらも表立って意見などすることなく、国家権力による抑圧を受け入れてしまう者たち両方の姿が、混在して描かれているからだ。

これこそ白色テロの恐ろしいところで、誰でもつい取ってしまいがちな“とりあえずの同調行動”や“心の弱さ”こそが、皮肉にも政府の権力をより強固にしてしまう。

それはまるで、選挙で「これまでそうだったから」「皆がそうしているから」と特に意思のない票を投じる行動のようでもある。

さらに、主人公たちが白色テロ時代に通っていた学校が廃校になり、そこで起こったことが風化しているシーンは、現在の台湾の教育や社会で白色テロ関連の情報をほとんど見かけないことを思い起こさせた。

本作品の大ヒットは、「白色テロは、決して忘れてはならない私たちの重要な歴史だ」というメッセージが刺さり、同時に台湾人の心に「自分の意思で動かなければ、自由も民主も奪われる」という種火を付けたように、筆者には思えた。

以上、雑誌『世界(2020年3月号、岩波書店)』への寄稿「台湾人の「民意」とカルチャー――ミリオンヒット映画『返校』にみる台湾人アイデンティティの行方」より一部抜粋

前置きが長くなってしまいましたが、
かつて「白色テロ」の受難者たちが監禁された遺跡が、国家人権博物館としてオープンしたのは2018年のこと。

ずっとずっと行ってみたかったこの場所、コーディネーター・ライターの大先輩である片倉真理さんが繋いでくださったご縁で、蔡 焜霖(さい・こんりん)さん龔昭勲(きょう・しょうくん)さんのお二人にご案内いただけることになり、同じくライターの先輩である田中美帆さんと3人で伺いました。

訪れたのは4月のことでしたが、書籍の執筆でここまで遅くなってしまいました。現在、東京では国家人権博物館初となる海外特別展が開催中(2021年11月末まで)なので、どうしても今公開しておきたいと思った次第です。間違っているところ、行き届かないところもあるかと思いますが、ご指摘いただければすぐに修正させていただきたいと思いますので、どうかご笑覧いただければ幸いです。

ついに念願の「国家人権博物館(景美)」 へ。

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左から二人目が蔡焜霖(さい・こんりん)さん、一番右側が龔昭勲(きょう・しょうくん)さんです。

台湾の歴史の中でも非常に重要なこの史実をテーマにした博物館を、なんと、白色テロの被害者である 蔡焜霖(さい・こんりん)さん直々にご案内いただきました。蔡焜霖さんのお兄様は司馬遼太郎『街道をゆく』台湾編の取材を案内された「老台北」こと蔡焜燦(さい・こんさん)さんです。台湾の歴史を、美しい日本語で語り継いでおられます。

ご両親の親族が白色テロの被害者だったという、龔昭勲(きょう・しょうくん)さんも付き添ってくださいました。龔さんは現在、作家として白色テロ関連の書籍を出版されていらっしゃいます。日本への留学経験がおありで、とても日本語がお上手です。

司馬遼太郎の『街道をゆく 40 台湾紀行 (朝日文庫)』は、台湾に来てまず初めに読んだ本でしたが、何回読み直しても勉強になります。

蔡焜燦(さい・こんさん)さんのご著書『台湾人と日本精神 (小学館文庫)』も、多くの日本人に読み継がれていってほしい名著です。

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90歳の蔡焜霖さん、今日のために脚のリハビリをして臨んでくださったそう。敷地内を歩いて周りながら、大変熱心に案内してくださいました。どれもとても貴重なお話でした。蔡焜霖さんのお言葉で直接お話を伺えて、本当にありがたかったです。

蔡焜霖さんの白色テロ体験

成績優秀だった蔡焜霖さん、教師に言われ読書会に参加したことで捕えられる

日本統治時代に日本語教育を受けた方は、かなりのエリートだと聞いています。
蔡焜霖さんも例に漏れず、とても成績優秀だったため(90歳になられた今でもとてもはっきりとお話しされ、頭脳の明晰さを感じさせます)、当時通っていた高校の教師から、読書会に参加するよう言いつけられました。

後に、その読書会は憲兵隊に目をつけられ、蔡焜霖さんは急に捕えられてしまいます。

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出典:「政治受難者蔡焜霖|台湾国家人権博物館特別展(日本語)」(https://youtu.be/fpbXEX5KtHc)
縛られてバスに乗せられた時、お兄様の蔡焜燦(さい・こんさん)さんは「お前がどこに送られるか自分には分かっているから、安心しろ」と声をかけてくださったそうです。

殴られたり蹴られたり、足の親指に電線を結びつけて電気ショックを与えられるなどの拷問を受けました。その時初めて、高校2年生から3年生に上がる前に読書会に参加したのが原因だったことが分かったそうです。

もう出来上がった自白書があり、そこにサインすれば3日ほどで帰してやると言われ、詳細を見ずに母印を押し、

その後は彰化(しょうか)の憲兵隊 → 台南の憲兵隊 → 台北・保安司令部保安處看守所(日本統治時代に浄土真宗東本願寺があった場所) → 保密局南所 → 國防部軍法局看守所(裁判の判決を下すところ。現在の台北シェラトンホテルのすぐ裏に当たる、青島東路3號)へ送られ、政治犯として10年間の刑という判決を受けられたそうです。
そして最後に、緑島にある「新生訓導処(強制労働キャンプ)」へ送られました。

蔡焜霖さんが青島の保安司令部保安所に入れられたのは、1968年のことで、当時、青島東路3號(シェラトンホテルのすぐ裏)にあった施設が戦後に国民党政府により監獄にされたそうです。
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保安所の模型。とても狭い部屋の中に数十人が押し込められています。
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写真の左側にトイレが設置されているのが分かりますでしょうか?
皆の前で用を済ませなければなりません。
また、新入りはトイレに一番近い場所で寝ることになり、(汚い話で申し訳ないですが)人の排泄物が飛んでくるくらいの距離だったそうです。人から、夜中眠れなくなるから、ハンカチを顔の上に乗せて寝ると良いよとアドバイスされた蔡さん、屈辱感でいっぱいになり、ハンカチの下で涙を流していたと、蔡さんの口述を記録して出版されたお本『逆風行走的人生:蔡焜霖口述生命史』(作者:蔡焜霖、薛化元、游淑如、版元:玉山社)に書かれていました。

『逆風行走的人生:蔡焜霖口述生命史』(作者:蔡焜霖、薛化元、游淑如、版元:玉山社)
『逆風行走的人生:蔡焜霖口述生命史』(作者:蔡焜霖、薛化元、游淑如、版元:玉山社)

また、部屋には窓もないので、中央に毛布を吊るし、交代で200回ずつ引っ張ることで、空気の流れを作っていたそうです。

「人間としての尊厳が失われていました」ーー蔡焜霖さんはおっしゃっていました。
「今でも自慢するんです、私は20歳の誕生日は五つ星ホテルの場所で1,000人ほどの友人たちが祝ってくれたとね」とも。

緑島(当時の名称は火焼島・かしょうとう)の政治犯収容所へ

政治犯として10年の刑が確定した蔡焜霖さんはその後、当時政治犯が収容されていた緑島(当時の名称は火焼島・かしょうとう)へと送られます。
ちょうど今から70年前、記録では1951年の5月17日に火焼島へ上陸したことになっているそうです。

蔡焜霖さんの記憶では新店の軍法処、內湖國小の刑務所を経由して、5月のある日、手錠をはめられて軍のトラックで基隆まで送られ、軍隊の陸上げ艦艇(略称:LST)の一番底にある、本来は車両の置き場にされている場所に押し込められ、三日三晩ほど閉じ込められました。
現在も海軍にそういった艦艇があるとのことで、龔さんは実際に見学に行かれたことがあるそうなのですが、「床には車両から漏れたオイルがそのままになっていたり、船底なので空気の流れもなく、大変な場所だった」と教えてくださりました。

船には900人ほどが押し込められ、兵隊たちを入れると1,000人以上いたとのこと。
船に乗せられた蔡焜霖さん、その時には自分がどこへ連れて行かれるか、何も分からなかったそうです。
手錠でもう一人と繋がれ、トイレへ行く時にも船尾まで二人連れ立って行き、用を足したそうです。

食事に支給されたのはカビた饅頭。蔡焜霖さんが「地獄みたいなところ」と表現されるような環境でした。
暗い船底で「どこへ連れて行かれるんだろう」「どこか海に捨てられるのか」と本当に怖かったそうで、「自分でも不思議だが、手錠でつながられていた人が誰だったのか、今でもずっと思い出せないんです」とおっしゃっていました。

三日後に、「着いたぞ、上がってこい」と言われ、狭い梯子を上がるために手錠を外され、船を降りたら、目の前には木が生い茂る丘があり、空には白い雲が漂っていて、眼下には美しい海が広がっていたーー「5月のとても良い天気で、夢のようだった」という蔡焜霖さんのお言葉がとても印象的でした。

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出典:「政治受難者蔡焜霖|台湾国家人権博物館特別展(日本語)」(https://youtu.be/fpbXEX5KtHc)

緑島の政治犯収容所は、今でも残され一般開放されているので、私もいつか訪れてみたい場所です。
蔡焜霖さんはそこで10年間過ごし、出た時には30歳になっていました。

とにかく久しぶりに足を伸ばして寝られることが嬉しかったそうですが、
そこで一緒だった自分より年下の子どもたちが死刑になって殺されていったことが、今でも無念でならない、と何度もおっしゃっていました。

蔡焜霖さんと同じように先生に認められ、読書会に参加して社会学の本を読んでいたことが罪に問われ、緑島に送られて、懸命に勉強して過ごしても、総統府から元々の罪では足りないからと、罪が足されて死刑にされた女学生。
好きな人から渡されたラブレターを肌身離さず持ち歩き、石けん箱に入れているのが見つかり、中国大陸の捕虜から教わった祖国を称える歌の歌詞を書き写して歌っていたことが罪の一つになったそうです。

「何の武器も持っていない、反抗もしていないのに、それでも死刑。読み終わった恋文は燃やせばいいのに、17歳の女の子ですから、それができない。あんなひどい政府のもとでは、それすら許されない」蔡焜霖さんの言葉が響きます。

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蔡焜霖さんは緑島の収容所に入ってすぐ、読書会に入るよう言った先生と再会したとおっしゃっていました。
蔡焜霖さん曰く、その先生はとても良い先生だったそうです。
どういった罪を着せられて捕まったかは分からないけれど、その先生は別の隊にいて、掃除をしていました。
違う隊の人とは話してはならないルールだったので、蔡焜霖さんがこっそり「先生」と話かけると、先生は「我慢しろ、生き抜け」と声をかけてくださったそうです。
その後何回も会いに行ったけれど、結局会うことはできず、台北に送られたということを人伝に聞いただけでした。

景美の人権博物館は、当時の収容所かつ軍事法廷だった場所。

五年間の準備期間を経て、当時収容所・軍事法廷として使われていた場所が人権博物館としてオープンしたのが2018年。
とはいえ、そもそもの記録が残っていない・公開されていないため、オーラルヒストリーを集めたそうです。

こういった博物館になっているのは、アジアでもここだけで、韓国にもないのだそうです。

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収容所を再現した施設を案内してくださる蔡焜霖さん。展示は当時と若干違うようで、当時は便器はなく、ただ穴が空いているだけで、そこに栓をして水を溜め、洗顔に使っていた。
早朝4〜5時ごろ、死刑が執行される人が点呼される。普段は閉まっていて、死刑がある時だけ開けられる門だったことから、この門は「地獄の扉」と呼ばれていた。皆、朝が来るのを怖がっていた。
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ここは面会所。ただ、日本語や台湾語は禁止され、北京語を話すことを強いられたため、話せない家族はただ見つめ合い、涙を流すことしかできなかったそう。
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暑い中、一歩一歩しっかりした足取りで案内してくださる蔡焜霖さんと、それを見守る若いスタッフさん。
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「美麗島事件」が起きるまでの話も聞かせていただきました。
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「美麗島事件」の審判も、ここで行われました。
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ここが当時の軍事法廷ですが、実際には秘密法廷で誰も入ってこられず、「美麗島事件」で初めて公開裁判が行われるまで、本当に形だけの裁判だったそうです。
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一番左が検事官の席。その隣が裁判官の席。「裁判官の隣に検事官が座るなんて、おかしいでしょう?」と蔡焜霖さん。今日は裁判長、明日は検事、と持ち回りで担当していたそう。
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人権博物館には、白色テロ受難者の名前、そして捕まった日が白い字で、処刑された日が赤い字で刻まれています。
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蔡焜霖さんご自身のお名前も。同級生たちのお名前もたくさんあり、皆さんとの思い出を話してくださいました。これらの名前は補償委員会の名簿をもとにしており、当時補償を申請しなかった人も多いので、決して完全ではないそう。

“白色テロの被害者であることは、公にできなかった。”

驚いたのが、白色テロの被害者であることは、台湾で長い間、なかなか公にしにくいことであったということです。

蔡焜霖さんご自身も、娘さんが大学生になるまでは隠していて、「お父さんは10年間日本に留学しに行っていた」ということにしてあったのだそう。

それも、白色テロの被害者であることがわかると、小学校などでは子どもが壇上に立たされ、「お前の父親は共産党のスパイだ」などと辱めを受けるようなことが決して珍しくなかったからということでした。

まだ終わっていない。白色テロが二度と繰り返されないために。

「人間が人間に対してこんなことをするなんて、信じられない」と私が言うと、
蔡焜霖さんははっきりとおっしゃいました。
人権博物館を作ったのは、こういう悲劇がまた再び起こらないようなメカニズムを作るため。そのために必要なのは4つ。
まず歴史の真相を明らかにすること、そして次に加害者の責任を追求すること、被害者に対する補償や名誉の回復をすること、そして最後にやっと和解できる。

蔡焜霖さんは真相の究明まではできてきたけれど、加害者の責任追求ができていない。
白色テロの被害者には後に政府から補償金(=国民の税金)が支払われています。でもそれを受け取ったのがすなわち和解ではないという意味に、私には聞こえました。

蔡焜霖さんは1990年、まだ誰も“語らない”時代にご自分の経験を綴って本を書かれました。
ですが初版販売後、その内容に政府からチェックが入り、加害者の名前が載っているからと再版以降は発売が禁止されてしまったそうです。

龔さんも、台湾では台湾の歴史を知ることができず(本は禁書だったため)、日本に留学して初めて台湾の歴史を知り、開眼したとおっしゃっていました。

台湾の歴史の本当に大事なところはまだまだ明らかにされていないということなのでしょう。

蔡焜霖さん「みんなアウシュビッツまで行くけれど、アジアには台湾の人権博物館がありますから」

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蔡焜霖さんの「みんなアウシュビッツまで行くけれど、アジアには台湾の人権博物館がありますから」というお言葉が、あれからずっと忘れられません。

人の尊厳や人権を、同じ人間がここまで踏みにじれるのかと思うほどの歴史に衝撃を受けました。

と同時に、ひとつのとても残念な現象にも気が付きます。

戦後、日本統治時代が終わり、中国大陸から中華民国が台湾を接収したことで、それまで日本から日本語を話すよう教育された台湾の方々は、「北京語(中国語の一種。現在は台湾独特の表現が加わり、中国大陸の北京語とはまた異なる言語へと変化していることから、「台湾華語」と呼ばれ区別されるようになってきている)」を強要されました。

私と同世代の台湾人たちは、北京語で育ってきているので、基本的に日本語はほとんど話すことができません。ぎりぎり「おじいちゃんおばあちゃんが日本語を話せるから、自分も少しだけ分かる」という人がいるくらいです。私の一歳年下のオードリー・タンさんも、おばあさまが日本語教育を受けられているので、日本語名があり、日本語が話せるそうですが、そういうことですね。

これがすごく残念なのは、白色テロの受難者の方々は日本語世代で、白色テロ当時に強要された経験から、北京語を話すことに対してはネガティブな感情があるのではないかということです。ただ、それによって現代の若者たち(北京語育ちで日本語は話せない)に向けての歴史の継承が、しづらくなっているのではないかという仮説が立てられます。

白色テロは正確な記録が非常に少なく、経験者またはその親族によるオーラルヒストリーによって継承されています。

「北京語ではなく日本語世代の方々が経験されていることで、歴史の語り部が少なくなり、台湾人でも知らない方が多くなっているのではないか?」と疑問に感じました。だからこそ自分にできること/すべきことがあるのではないか、と思うのでした。

正直な話、あまりにも事が大きすぎて、まだ自分の中で自分には何ができるのか、答えが出ておりません。
それでも、きっとたくさんの方に何度も同じ話を語られてきたのであろう蔡焜霖さんから私もバトンを託していただいたと思っています。しっかり伝えていきたいと、心に誓いました。

同じく案内してくださった龔昭勲さんにも、心から感謝申し上げます。

蔡焜霖さんを主人公にした漫画『来自清水的孩子 Son of Formosa』の日本語訳が出版されます!

日本語字幕付きの蔡焜霖さんのお話

蔡焜霖さんを主人公にした台湾の漫画『来自清水的孩子 Son of Formosa(脚本:游珮芸、漫画:周見信)』の日本語訳が2022年、岩波書店より出版されるそうです! 楽しみですね。

↓詳しくは「太台本屋 tai-tai books」さんのブログご参照ください
「〔邦訳刊行決定!〕『來自清水的孩子Son of Formosa』游珮芸、周見信(グラフィックノベル/2020/慢工文化)」
http://taitaibooks.blog.jp/archives/29992143.html

蔡焜霖さんが2021年、春の叙勲を受賞されました、おめでとうございます!

この春、蔡焜霖(さい・こんりん)さんが「令和3年春の叙勲」で、栄えある旭日双光章を受章されました。
お兄様の「老台北」こと蔡焜燦(さい・こんさん)さんも、平成26年春の叙勲で旭日双光章を受章されており、ご兄弟での受勲受章となりました。
これまでの功績がこうして認められ、広く知られること、心から嬉しく思います。本当におめでとうございます。

龔さんのご著書『Todes Märsche死亡行軍──從神童到火燒島叛亂犯:蘇友鵬醫師的一生』も日本で出版予定とのこと!

後日、龔さんから中国語で書かれたご著書『Todes Märsche死亡行軍──從神童到火燒島叛亂犯:蘇友鵬醫師的一生』をお送りいただきました。

『Todes Märsche死亡行軍──從神童到火燒島叛亂犯:蘇友鵬醫師的一生』(作者:龔昭勲、出版社:前衛)
『Todes Märsche死亡行軍──從神童到火燒島叛亂犯:蘇友鵬醫師的一生』(作者:龔昭勲、出版社:前衛)

蔡さんと同じ時期(蔡さんより5ヶ月前)に逮捕され、同じく緑島へ送られた龔さんの伯父さんを主人公に描かれたお本です。
青島東路3号や、緑島の「新生訓導処(強制労働キャンプ)」の詳細が書いてあるとのこと。
現在は、日本語の翻訳も完成され、日本でのご出版を計画されているそうです。

日本でも上映、映画『返校 Detention』

2019年9月20日の公開からわずか7日間でミリオンセラー、興行収入が2019年公開の台湾映画の中で最多となる2億6000万台湾元(約9億6200万円)を突破し、大ヒットを記録しました。
「台湾のアカデミー賞」と呼ばれる「金馬賞」では12項目にノミネートし、「新人監督賞」と「オリジナル脚本賞」をダブル受賞。

映画のキャッチコピーは「忘れたの?それとも思い出したくない?」
白色テロ時代を生きる主人公の高校生らの目線を通して、クラスメイトや教師、家族らが犠牲になるさまが生々しく描かれています。

ちょっとネタバレになりますが、この作品で重要な役割をする、高校の男性教師がいます。蔡焜霖さんによれば、そのモデルになった当時の基隆高校の校長・鍾浩東さんが、この景美に収容されていたそうです。

蔡焜霖さんのお兄様・蔡焜燦(さい・こんさん)さんのご著書『台湾人と日本精神)』にも記されています。

台湾北部の基隆市・基隆高級中学(高校に相当)の鍾浩東校長が突如逮捕される。反体制新聞『光明日報』の主筆者であるという嫌疑で、その学校の生徒数名と共に連行されたのだった。
自らの死を覚悟していた鍾校長は、同じ政治犯刑務所の中で、生徒達に「僕が呼ばれたら獄内の人達に『幌馬車の歌』を歌って送ってくれるよう伝えてほしい」と頼んでいた。
名前が呼ばれると、それはすなわち処刑を意味していた。そしてその日がくると、鍾校長は従容として死に赴いていったのである。獄中の人々は、鍾校長の願い通り『幌馬車の歌』を歌って彼を見送った。このとき、涙を流しながらこの唄を歌って鍾校長に別れを告げた学生の内の一人が私の実弟である。

蔡焜燦さんのご著書『台湾人と日本精神(小学館文庫)』より一部抜粋・引用

この“涙を流しながらこの唄を歌って鍾校長に別れを告げた学生の内の一人が私の実弟”というのが、ほかでもない蔡焜霖さんで、今回、目の前で蔡焜霖さんがこの『幌馬車の歌』を歌って聴かせてくださった時には、心がえぐられるような気持ちになりました。

蔡焜霖さんもそうですが、日本語教育を受けた方たちは、私よりもよっぽど日本人精神をお持ちだなと感じます。
蔡焜霖さんによれば、この景美で死刑に処された方は、死刑を執行される前と、執行された後の写真が記録のため撮影されたそうです。そして、生前最後の写真を撮られた多くの犠牲者たちが、「日本人精神だ」ということで、白いシャツを着て、にっこりと笑顔で写っていたそうです。

この人権博物館の常設展では、彼らの写真も展示したいとおっしゃっられていました。

コロナ禍で今すぐ台湾を訪れるのは難しくても、同作品をご覧いただいてからまたいつか、この人権博物館に行ってみていただけると、より感じるものが多くなるのではないでしょうか。

映画『返校 言葉が消えた日』オフィシャルサイト
https://henko-movie.com/

国家人権博物館(景美)の基本情報

当時の様子や貴重な資料が残されているほか、図書館も併設されており、関連書を閲覧することもできます。
日本語案内のボランティアも受付されているそうです(要事前予約)ので、ご興味ある方はぜひ足を運んでいただけると嬉しいです。

住所:新北市新店區復興路131號
(私たちはMRT大坪林駅から徒歩20分くらいで歩いて行きましたが、バスを使うのも便利だと思います。)
電話番号:02-8219-2692
営業時間:9:00〜17:00 月曜定休 
※コロナ禍で営業時間や入館方法が変更になっています。詳細はオフィシャルFacebookページをご確認ください。
オフィシャルサイト:https://www.nhrm.gov.tw/

たくさんの動画資料が無料公開されています。
こちらは国家人権博物館(景美)の紹介動画・日本語版です。
https://imedia.culture.tw/channel/nhrm/zh_tw/media/86288

こちらは蔡焜霖さんが出演されている、2021年9月25日に公開されたばかりの動画 『《人權路上》人権という名の道に|完全版(日本語)』

国家人権博物館初となる、海外での特別展が日本(東京)で開催中です!

台湾国家人権博物館らによる特別展「私たちのくらしと人権」が、東京で開催されています。
またとない機会だと思いますので、コロナ禍ではありますが、ご都合のつく方はぜひ訪れてみていただければ幸いです。

場所:東京・台北駐日経済文化代表処台湾文化センター
会期:2021年9月15日〜11月30日まで
開館時間(月曜日~金曜日)10:00〜17:00、休館日:11/3(水)、11/23(火)
オフィシャルサイト:https://snet-taiwan.jp/twhr/

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